はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

しかしこの死のなかには何ら悲哀はなく

僕は、この鎌で麦を刈る人のなかに
―—炎天下、自分の仕事をやり遂げようと悪魔のように闘う朦朧とした姿のなかに―—
死のイメージを見ました。人間は刈り取られる麦のようだという意味です。(・・・・・・)
しかしこの死のなかには何ら悲哀はなく、
それは純金の光を溢れさせる太陽とともに明るい光のなかでおこなわれているのです。
         ——フィンセント・ファン・ゴッホからテオ・ファン・ゴッホへの手紙
                                  (1889年9月6日)
 例えば誰かが自殺したとする。
 本人やその家族、友人にとっては大きな悲劇だけど、それをマクロで見たときには、自殺者数の欄に記載される「1」という数字になる。一般論で言えば、こんな風に個人の悲しみを数字でとらえることは、その感情を軽視するものであって、時に批判される対象となると思う。
 でも、うまく説明はできないのだけど、それを数字でとらえることは、私を少しだけ楽な気持ちにさせてきた。たぶん、2万もの数字の後ろには亡くなられたご本人の方、それを悲しむたくさんの人がいることを想像することができて、自分は一人じゃないかもしれないと思えたから。私は、たくさんの人が自分と似た経験をしていること、私の身に起こったことは珍しいことではないことを自分自身に言い聞かせることで、「これはたいしたことじゃない」って思い込み、自分を保とうとしていたのだと思う。
 
 先日、美術館へ行った。ゴッホの『刈り入れをする人のいるサン=ポール病院裏の麦畑』と、それに纏わる冒頭に記載した逸話を見た。私はなんとも言えない気持ちになった。
 なんだろうな、うまく言語化できないからこそ、こんな風に文章を書こうと試みているのだけど、ゴッホの手紙の中に上記の自分の考え方を見たというのが一番しっくりくるのかな。
 ゴッホは、麦の刈り入れを死に見立てることで(少し調べると、これは聖書に由来する考え方のようですね。)、死はたいした問題ではなく、むしろその中に美しさを見ているように思うんだけど、これが大きな悲しみを数字に置き換えることで自分を保とうとした自分の考え方に重なって見えた。
 だからなんだというものではないのだけど、重なって見えて、なんとなく落ち込んだ。ゴッホは、「しかしこの死のなかには何ら悲哀はなく」と言うけれど、絵を見た私には悲哀しか感じられなくて、本当の気持ちではない願望のようなものを手紙に書いているように思えてしまった。そうだとすれば、それは悲しいことだし、私の考え方も他の人からすれば、悲哀に満ちたものなのかもしれない。そんなことを思った。