はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

2年

2年が経った。
おととい3回忌をした。亡くなった年を1回忌、次の年が2回忌、今年が3回忌となり、現実に経過している2年間と感覚は異なるのだけど、今回行った法事は3回忌なのだという。コロナウイルスの影響で親戚などは呼ばず、母、兄夫妻とその子ども、私、父の妹の6人で行った。お経も、コロナウイルスの影響で和尚さんだけが読むとのことで、私達は和尚さんの声を聞いた。木魚を叩く音は私の耳によく響いた。
私はこの2年のことを考えた。本当に色々なことがあった。人生の中で最も濃密な期間であったと思うし、初めて経験する衝撃的なできごとで私の人生は変わってしまった。当時好きだったAさんと、父の自殺、これが私の中では複雑に絡み合っていてとても苦しかった。Aさんのことを考える時、それは時に父のことを考えることに繋がっていて、父のことを考える時、それはAさんのことを考えることに繋がっていた。
この2年間、私自身よく生きてこられたものだと思う。精神的にぎりぎりのところまでいったと思うし、深呼吸をしてみてもどこか落ち着かなくてやり場のない自分ではコントロールのできない感情に翻弄された。そんな中で私がなんとか生きてこられたのは、話を聞いてくれた友人の存在と、自死遺族の当事者グループ、電話の相談窓口、似た境遇にいる方々のインターネットへの書き込みのおかげだと思っている。その中でもこの友人の存在は本当に大きくて、辛い時に話を聞いてくれたし、時にどこかへ連れ出してくれもした。本当に感謝していて、私はこの友人を一生大切にしていきたいと強く思っている。
話をすることと、聞くことにこれほどまでの力があるとは思わなかった。私の地方では2つの自死遺族の当事者グループが1か月おきに話をする分かち合いの会を開催していて、私はその分かち合いの会へ7,8回行ったのだけど、一時期の私はこの会へ行って話をし、話を聞くことでなんとか精神を保ちながら生きていた。どうしようもなく誰かに話を聞いて欲しい一方で、誰も自分の気持ちなどわかるものかという気持ちの先にあるものが、自死遺族会での分かち合いだったのだと思う。そこでは誰を自殺で亡くしているかということや全く異なるストーリーを持つ方々がいて、話をするためには自分の中の気持ちを整理する必要があった。私自身泣いてしまって話にならなかったこともあったけど、話すこと自体によって自分の気持ちが整理され、それによって自分自身が少しずつではあるけれど前向きな方向に向かうのが感じられた。そして、他の方の話を聞くことも自分にとっては有意義だったように思う。他の方の考え方に触れることで自分を俯瞰して見ることができ、良い考え方を吸収することができた。この2年、自死遺族会で話し、聞くことは、苦しみもがいていた私の中心にあったと思う。

母は「2年経ったね。」と言った。私は「うん、もう2年も経っちゃったね。」と言って、兄は特に何も言わなかった。
2年も経ってしまったんだよな。このブログにも色んなことを書いてきたけれど、そして、色々と考えてきたけれど、私は私自身が父に向き合えているのかよくわからない。これからも父の自殺の兆候に気がつけなかったことや向き合えなかった後悔と一緒に生きていくのだと思う。いくら考えても答えなんてなくて、その時々に、後悔の気持ちに押しつぶされそうになったり、父との思い出を思い出してふふっと少し笑ったりするのだと思う。でもそんな風でも良いのかななんて今は思えたりもする。
そして今の私はどこかへ向かっている。前に進んでいるとは決して表現したくないのだけど、数十人の人の前で私の経験を話したり、自分にできることを模索したり、父の自殺がきっかけで考えるようになったことに向かって歩き始めている。その先に何があるのかはわからない。でも私は苦しむ人のために、大切な人を大切にしたいと願う人のために、大切な人を亡くして悲しむ人のために、何かをしたいと強く思う。これは父を助けてあげられなかった、何もしてあげられなかった罪悪感を少しでも埋めるためのものであるように思うけど、それでも私は構わない。父は死んでしまったけど、あれから私は多くのことを学んで、考え方や感じ方は豊かになったようにも思う。それが良いことなのか悪いことなのかよくわからないけど、確かに今の私は生きていて、自殺してしまった父の生をも生きていきたい。

おとん、ありがとうね。