はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

生きる理由

なんだか同じようなことを書いている気がします。
でも仕方がありません。それでも良いのです。
 
コロナ禍で開催されなくなってしまったことをきっかけに、私はそれまで10回弱も参加していた自死遺族の分かち合いに参加しなくなっていたのですが、先日、オンラインでの集いに参加してきました。
初めて参加する団体で、かつオンラインであったということもあり、発言することはできなかったのですが、色んな人の話を聞く中で、色んな記憶がよみがえってくるような、気持ちが戻ってくるような、そんな感覚がありました。1年ほど前のブログで、私は「父のことを考えることを休むことにした」と書いたのですが、今回この集いに参加して色んな方の話を聞いた今、私はその先の考えに至ったように感じています。
今年の1月、私はこんな風に書いていました。
 
昨年のクリスマス前後、私はインフルエンザになりました。病は気からと言いますが、その時私は本当に弱っていました。このブログで父のことや自分のことを色々と考えてきましたが、父の自殺に対する後悔の部分を考え始めるとどうしようもなくなってしまうのです。
「また大切な人を失いたくないから、きちんと勉強していく」とか、「家族を大切にする」などと嘯くことはできるけれど、父は戻りません。それは不可逆なのです。ただただ後悔することしかできなくて、それをどうすることもできず、私は落ち込んでいきました。
そんな風に落ち込んでいた時に私はインフルエンザになりました。その苦しさの中で泣きました。あぁ、これは壊れてしまう。考えれば考えるほど後悔しか生まれなくて、出口がありませんでした。
だから私はもう、今は考えるのを辞める、休むしかないと思ったのです。
(略)
私は開き直っているのかな。
いや、少し違うのかな?「行き詰まっている」と言った方が良いのかな。父の自殺に向き合う中で、「後悔」という大きな部分に対して少なくとも今は自分が納得できる答えが見つからない。答えなど無いかもしれないし、今までに考えてきたようなことしか自分の中から出てこないかもしれない。
でも、今は少し休憩しなければ自分自身を保てないかもしれないということも事実なんだよね。
だから、今は少し休ませて欲しい。

 

ただただ後悔して落ち込んでいき、納得できる答えが見つからずに立ち尽くしていた私なのですが、今回色んな方の話を聞く中で、この1年の間で考え方が変わってきていることに気がつきました。
まず前提として、父を救うことができなかった、助けてあげられなかった後悔が無くなったわけではないのです。なのですが、それに向き合う自分が変わったのかもしれません。今まではその後悔に対して為す術もなく押しつぶされそうになっていたのだけど、今はその後悔こそが「私が今を、そしてこれからを生きる理由」なのだとすら思えるようになってきたのです。これは私が父の自殺をきっかけに考えるようになった、大切な人を大切にしたいと願う人のために、大切な人を亡くして悲しむ人のために、何かをしたいと考えて実際に行動を起こし始めていることが理由なのかもしれないとも思います。その行動がこれからどんな風になっていくか、今はまだわからないけれど、私は父の自殺を抱えて、父の自殺に対する後悔をも抱えて生きていきたい。それが父の自殺に対する私なりの答えとは言いませんが、現時点での付き合い方なのかなと思うのです。
今の自分の根っこには父の自殺があって、一時は父の自殺によって自分自身が壊れてしまいそうなほどになってしまったけれど、今を生きる理由もまた父の自殺なのだと、今の私はそんな風に思っています。