はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

当事者であること

 当事者であることには特有の力がある。
 
 私が自死遺族の当事者グループへ行って話をし、話を聞くことで救われたような気になれたり、気持ちの整理をしていくことができたのは、そこが、大切な人を自死で亡くした当事者のグループであったからだと思う。
 大人になると、人は多かれ少なかれ立場で話をするようになるけれど、そこではみんな大切な人を亡くして悲しむ一人の人間で、みんな同じ立場だった。当然、経験したことの細かな部分や考え方は異なることがあるし、誰を亡くしたのかという、自死遺族にとっては重要なことも異なる。でも私たちはお互いの想いを推し量り、尊重し、話をして、話を聞いた。
 たぶん、そんな風に話をするのが新鮮だったのだと思う。大人になってから何年も経ち、長い間、私は話をしたい人とだけ、話したいことを話してきたように思うし、話したい想いもなかった。そんな私には、むき出しの自分で対話することが新鮮に感じられ、想いがあるからこそ、きっとそれは心地良かったのだと思う。
 私はこの当事者グループでの分かち合いに救われた。
 
 最近、ようやくわかってきた。
 この2年ほど、広く言えば自殺対策、狭く言えばおしゃべりをするイベントを開催している。このイベントは一緒にやっている仲間と作り上げてきたものだから、すべて自分の考えでやっているわけではないけれど、このイベントは、当事者グループを一般化したものにほかならないということにようやく気がついた。いや、もっと前から同じようなことを言っていたような気もするけれど、ようやく自分の中にきれいにおさまってきたというか。
 つまりこういうこと。
 私は自死遺族という共通項をもつ当事者グループへ参加して話をしていたけれど、私は、「今を生きている」という共通項をもつ当事者グループを志向したイベントを開催している。この「今を生きている」という言葉には、喜んだり、悲しんだり、悩んだり、そんな感情を持ちながらも毎日を生きているという意味が含まれていて、これを共通項としている。そして、誰しもこんな風に生きている部分はあるわけであって、そうだとすれば、私たちはみな「今を生きている」当事者だといえる。
 私はこんな風に、当事者であることを一般化したい。
 そうすることで、想いが溢れてしまってからそういうところへ行くんじゃなくて、その前の段階で、普段の生活の中で、当たり前に想いを話すことができるようになると思う。
 
 ある教育機関でこのイベントを開催させてもらえることになった。
 どちらかと言えば、メンタルケアやコミュニケーション能力に軸足のあるものだけれど、イベントのフォーマットはほぼ全て私たちがやっている方法を持ち込む。どうなるか、緊張するし、そわそわする。でも、これを広げていけたらなぁとも思う。がんばりたい。