はるまきさんの記録

考え方の整理を記録します。

父が自死をした日

 父が自死した日を記録します。父の遺体に再会するまでを書いていますので、読まれる際はご注意をください。
 
 父が自死をしたのは11月の末でした。場所は埠頭近くにある公園の公衆トイレ内で、死因はトイレの手すりにメジャーをひっかけて首を絞めたことでした。
 正確に父が自死をした日にちはわかりません。病院が発行した死体検案書には、「死亡したとき」は午前0時頃と書かれています。なので、その日を命日としているのですが、感覚的にその前日がその日だったのかもしれないなと、私は思っています。
 
 父が自死をしたであろうその日の夜、私は同期7,8人ほどでご飯を食べていました。同期の一人が育休をとるということで、送別会の意味を込めたものです。
 私はこの夜のことをよく思い出します。父が死と向き合っていたその時に、私は楽しくお酒を飲んでご飯を食べていました。父が自死に至るまでに、父の中でも様々なことがあったと思うので、この一時点を切り取っても意味がないとも思うのですが、父がまさに自死をしようとしている時、私は楽しく過ごしていたのです。その事実に虚しくなります。
 その中でも、なぜだか特に覚えていることがあります。12時少し前、食事会から帰宅した私はその日のお弁当箱を洗っていました。アルコールと食事会の高揚感、そしてその少し前に同僚の方(何度か登場するので、Aさんとします。)に振られた感傷から妙に浮ついた気分でお弁当箱を洗っていました。明日のお弁当を作るのは諦めた、なんて思いながら。
 私自身が洗い物をしているこの光景を、私は今でもよく思い出します。
 
 そしてその翌日。父は既に亡くなっていたであろうその日。
 私は朝から普通に仕事へ行きました。普通に午前中を終え、Aさんと昼ごはんを食べました。
 昼過ぎでした。1時30分の少し前。
 普段であれば、スマートフォンは机の中にしまっていて見ないことが多いのですが、その日はたまたまスマートフォンをちらっと見ました。すると、兄からラインが数件、ラインの通話、電話とたくさんの履歴が残っています。すぐにロッカーで兄に折り返すと、父が失踪したこと、すぐに実家に帰って欲しいことを伝えられました。
 すぐに帰ろうと思い、上司に伝えようとしても気が動転していました。「父が、父が、」としか私は言えなかったように思いますが、上司は「うん。わかった。行っておいで。」と言ってくれました。もう涙で目が滲んでいました。
 
 会社を飛び出して、一人暮らしをしているマンションへ原付を飛ばしました。道中、涙が滲んだ目で「お願いしますお願いします」と祈るような気持ちで走っていました。
 家に着いて次の電車の時間を調べると、少し時間があることがわかりました。我ながら不思議に思うのですが、妙に冷静なところもあって、私はこの時間に着替えをして電車に乗りました。
 マンションから実家までは、在来線を乗り継いで1時間半、兄は実家まで新幹線と在来線で3~4時間のところに住んでいます。
 電車に乗っている間、兄からのラインを読むと要点はこうでした。
 ・母から兄へ、父が昨日仕事へ行ったきり帰って来ないという連絡が今日の昼頃にあった。
 ・母はその連絡にうつ病が思ったよりも進行してしまった、と書いていた。
 ・母は昨夜から寝ずに待っていたが、居ても立ってもいられずに朝4時ごろ父の会社へ行った。そこに父はいなかった。
 ・母は父の会社の始業を待ち、会社の社長さんに話を聞いた。
 ・社長さんも父の所在がわからなかったが、警察へ届け出るように母へ勧めた。
 ・母はその足で警察署へ行方不明届を提出した。
 ・母へ警察から連絡があり、埠頭で父のスマートフォンGPS反応が出たことを伝えられ、大きなメジャーを持っていたかを聞かれた。
 ・警察が埠頭へ向かっている。
 ・状況がわかり次第、警察から連絡が来る。
 ・車で30分程の場所に住んでいる叔母(母の姉)が実家の母のもとへ向かっている。
 
 Aさんから急に帰ったけどどうしたの?と連絡が来ました。私が父が失踪したことを伝えると、Aさんは一緒に探すと言ってくれました。良くあることなのかと聞かれたので、こんなことは初めてだと伝え、警察がGPS反応を頼りに埠頭へ向かっていると伝えました。
 私が中学生の頃、父は精神的に少し不安定でした。それまでにも何度か転職をしていたのですが、その頃に転職した職場が合わなかったのだと思います。父はいつも不機嫌で、母に怒鳴ることもしばしばであったように思います。その職場を2,3年で辞めてからはそのようなこともなくなっていたため私も忘れてしまっていたのですが、父のうつが進行して失踪したと兄から連絡があった時、私にはそれが突拍子もないことのようには思えなくて、お願いだから生きていて欲しいと思う反面、あぁそうか、ひょっとするともうだめかもしれないな、という相反する考えが私の中にありました。
 
 実家近くの駅に着いた私は、タクシーへ飛び乗りました。駅からタクシーを使うなんて普段であればありえないことでしたが、一刻も早く家に帰る必要が私にはありました。
 家に着くと叔母の車があり、叔母が既に到着していることがわかりました。
 急いで居間に入っていくと、
「〇〇(私の名前)、お父さんだめだった、ごめんね」
と母が泣きながら、泣いているために不明瞭になった言葉を私に投げました。母は立膝をついて泣いていました。私はこの時の母の顔を、姿を一生忘れないのではないかと思います。瞼が赤くなり、顔をくしゃくしゃにして泣いていました。
 すぐに私の目にも涙が溢れ、嗚咽が漏れました。泣きながら、私は私自身がこんな風に泣いていることに驚きました。普段からどこか冷めている自分を感じていたので、私は私の中にこんな感情があるとは思わなかったのです。私は声をあげて泣いていました。
 
 話を聞くと、私が到着するほんの数分前に警察から連絡があり、父の自死を告げられ、警察署まで遺体を引き取りに来て欲しいと言われたとのことでした。
 すぐに警察署へ行くことになり、途中にある駅で兄を拾いました。私はAさんに父が首を吊って自殺をしたと伝えました。
 警察署へ到着すると、刑事課?に通されたように記憶しています。母と兄、私の3人で警察官から父について話を聞かれました。警察官の話によると、場所が公園の公衆トイレであったために他殺の可能性も捨て切れず、調査に時間がかかり、連絡が遅れてしまったとのことでした。ただ、父が自死に使用したメジャーが父の持ち物であったことなどから、自死であると判断されたようでした。
 その後は、ここ最近の父の様子について話を聞かれました。母が話をしました。
 うつ病あるいは認知症が進行していて、病院に行こうとしていた矢先のことであったこと。
 父が管理していた通帳や印鑑の場所、通帳の暗証番号まで最近になって伝えられていたこと。
 父の仕事に区切りがつくところまで頑張ろうと話をしたこと。その区切りは5日後でした。
 年末には会社を辞めようと話をしていたこと。
 話を聞いていた警察官は言葉を選びながら話をしているようでした。私は警察官の方を少し気の毒に思いました。
 
 取り調べが終わった後、父の遺体がある場所へ私たちは案内されました。警察署の地下に駐車場があり、その一角が部屋になっていて、そこに父がいるとのことでした。暗い駐車場とは対照的に、その部屋は外からとても明るく見えたことをよく覚えています。
 部屋に入ると、し尿の臭いがしました。 
 その部屋は8畳くらいの大きさで、日常的に私たちのような人たちが案内される部屋と思われ、必要最小限の備品が置かれているような、そんな部屋でした。
 その部屋の中央で、父は白い布を体全体にかけられ、ストレッチャーの上で寝ていました。警察官の方が見られますか?というようなことを聞かれ、私たちがうなずくと、白い布がめくられました。
 寝ていたのはやっぱり父でした。首を絞めた際にあごが外れてしまったのか、下あごを前方に大きく突き出していて、舌べらも同じように突き出していました。舌べらにはぼつぼつとしたものがたくさんありました。
 私はこの時の自分がどんなことを考えたのかよく思い出せません。あえて言うならば、悲しみの向こう側、諦めみたいな気持ちであったように思います。
 父の首に目をやると、紫色の2,3センチの筋がありました。その筋は首に食い込んでいて、痛そうでした。母が、ここを絞めたんだね、と言ったような気がします。父はメジャーで首を絞めました。首を絞めると言うけれど、その筋は私が思ったよりも頭の方にあって、思ったより上なんだなと私は思いました。
 父の額はすべすべとしていてひんやりと冷たかったです。
 
 なぜ私はこの文章を書いてブログに載せているのでしょうか。
 それは全て、全て私自身のためであると思います。

生きることを肯定するために

 生きることを肯定すること。
 これが私の人生のテーマだ、と以前このブログに書きました。
harumaki12.hatenablog.com

 この肯定は、自分自身と大切な人の生に対する肯定です。
 今回はそれ以降の話、具体的にどんな風にしたら自分自身の生を肯定することができるのか、考えたことを記録しておきたいと思います。

 

感情を大切にすること。
 自分の生を肯定するために、まず大切なのは「自らの感情を大切にすること」だと私は考えています。悲しみ、喜び、怒り、色々とあると思うけれど、生きることは、これらの感情と向き合うことだと思うのです。
 生きていれば、様々な感情が私たちの心の上を通り過ぎていきます。でも、日々の生活の中で私たちはこういう感情を気づかないうちに抑圧してしまっているように思います。だから、


 嬉しかったら、嬉しいって言う。
 悲しかったら、悲しいって言う。
 伝えたい思いがあったら、きちんと伝える。

 

 そんなの当たり前だよと思うようなことではあるけれど、それを実行できている人はとても少ないんじゃないのかな。私たちは知らず知らずのうちに自分の気持ちを抑圧してしまっているし、綺麗ごとだけでは生きていけない。それはわかってる。でも何よりも大切なものとして、私は自分の感情を大切にしていきたいと思います。


 でもね、ここに大きな問題が一つあります。
 自分の感情がわからないのです。ありゃあ。明らかなことであれば問題はないのですが、でも少し問題が入り組んできてしまったりすると、時として私は自分の感情さえ分からなくなってしまいます。ひどい時には、相反する感情が自分の中にあって、その時々でどちらかが優勢になったり戻ったり逆になったりするのです。なんと難しいのでしょう。
 自分の感情がわからないということについては、また考えていきたいと思います。


一生懸命に生きる。
 今日、にっぽんど真ん中祭りでした。私はある会場でたまたま京都の学生チームと障害者の方を含むチームの踊りを見ました。
 学生たちはとても楽しそうに踊っていました。みんな笑顔いっぱいで、本当に楽しそうでした。実際にとても楽しいのだろうと思うのですが、私は彼ら彼女らの、その楽しむことを一生懸命に追及しているとでも言える姿にとても胸を打たれました。なぜだか涙も出てしまいました。
 そしてその後に踊っていた障害者の方を含むチーム。時々、動きが止まってしまっている方がいたりして、踊りのクオリティーは決して良いとは言えるようなものではありませんでした。でもみんな一生懸命に踊っていることが伝わってくるのです。本当に一生懸命に、一生懸命に踊っているのです。気づくと涙が出ていました。
 二つのチームの踊りを見て、私は「ひたむきに頑張る姿」に感動していたのだと思います。一生懸命に頑張る姿はこんなにも美しく、穿った見方をしたり、理屈をこねくり回している私にはすごく眩しく見えました。


 彼ら彼女らのように一生懸命に生きることができたらと、私は強く思いました。

やりきれなさを抱いて生きる

 父の初盆の仏壇の前で正座をしていると、自然と「ばか。」という言葉が出てきます。
 なんで自殺したのでしょう。今まで色んな風に考えてきたように、苦しいこともいっぱいあったと思うし、私はそれに気がつけなかった。その後悔ももちろんある。でも仏壇を前にした時に出てくる言葉は、私の場合、私自身のことを棚に上げたこの二文字です。
 
 最近知り合った方におすすめをいただいて、西加奈子の「さくら」という小説を読んでいました。とても良い小説でした。
 文庫本の裏表紙にあるあらすじの冒頭には、「ヒーローだった兄ちゃんは、二十歳四か月で死んだ。超美形の妹・美貴は、内に籠もった。母は肥満化し、酒に溺れた。僕も実家を離れ、東京の大学に入った。・・・」とありました。
 ネタバレになってしまいますが(このネタバレでこの小説の良さは失われません。)、このあらすじを読んで、自殺だなと私は思いましたが、読んでいくとやっぱり自殺でした。小説の細かな内容には触れませんが、兄ちゃんが自殺をするまでの家族5人の生の幸せとやりきれなさ、そしてその後を丁寧に描いた傑作であると私は感じました。
 
 以下、私の感想、考えごとです。
 
 小説の体裁はたくさんのエピソードの集合体といった形のもので、家族の歴史や思い出を丁寧になぞった、やりきれなさに溢れた小説でした。
 主人公である薫と湯川さんの淡い恋。
 兄ちゃんと矢嶋さんの恋。
 兄ちゃんの人生。
 末の妹ミキのことが好きな同級生による卒業式での独白。
 ミキの恋。
 
 書き出したものが、恋愛におけるやりきれなさばかりで我ながら苦笑いですが(違う部分ももちろんあります。)、この小説はいくつものやりきれなさがありながらも、飼い犬「さくら」が家族を優しく包み込み、悲壮感を感じさせない優しい小説でもありました。
 
 私がこの小説を読みながら考えていたことは、このやりきれなさについて。
 この小説の中にはやりきれないことがたくさんありました。でも、この小説の登場人物たちはそのやりきれなさにきちんと向き合って、自分なりの答えを、それぞれの方法でたどり着いているようでした。
 
 私の人生において、やりきれないと言えることは父の死が初めてでした。父の死に向き合うとはどういうことなのでしょうか。今までに考えてきたように、思い出すこと、考えることを放棄しないなどいろいろとあるように思いますが、このやりきれなさについて考える時、このやりきれなさが、既に私の一部になっていることに気がつくのです。私はもう、父が自殺する前に自分がどんな風に考え、毎日を生きていたのかよくわからなくなっています。また、何もかもが変わってしまったようにも思うのです。変わってしまったのです。それは私にとっての事実であり、そして、このやりきれなさがもはや私の一部であるのなら、父の死はもはや私の一部であると思うのです。
 そんな風に考えてくると、私はこのやりきれなさを遠ざけるのではなくて、これを大切に胸に抱いて生きていきたいと思います。残念ではありますが、これはもはや私自身を表す一つの事象であり、今の私を形作るものでもあるのです。そうであるならば、私はこのやりきれなさを愛していきたい。
 
 もう一つ考えたことは、父が自殺したことへの過剰な着目は父に対してフェアではないのかもしれない、ということです。
 なぜそんな風に考えるようになったか。「さくら」の中で兄ちゃんは自殺をしてしまうわけですが、自殺したこと自体への言及はごく僅かです。その一方で、兄ちゃんと過ごした月日のことや、兄ちゃんの生きる喜びと悲しみ、兄ちゃんが生きた記録に溢れています。
 なんだか私は、大切なことを忘れてしまっていたような気がしました。父と過ごした人生の記憶、楽しかったこと、悲しかったこと、後悔、色んなものがあるのかもしれませんが、一緒に生きてきた記憶の方が時間的な意味でも私の記憶としても、大切なものであるはずで、それがあったからこそ、最後の1日が大きな意味を持っているわけですが、そのことがやはり大事であると思うのです。
 
 最後に、兄ちゃんのことが大好きな妹ミキの言葉を。(以下引用。)
 
 「うちな、」
 ミキの声は、揺れる車に合わせて震えている。
 「うち、もし、好きな人出来たらな、」
 ミキは、あふれ出す涙のように、今度は言葉を吐き出した。悲しさ、恋しさ、憎しみ、孤独感、妬み、小さな頃音を立てて僕らに伝えたそれを、ミキは今、言葉に乗せて吐き出す。
 「好きやって、言う。迷わんと言う。あんな、好きやて言う。だってな、その人、いつまでおれるか分らんやろ? いつまでおれるか分からん、な。好きやったら、好きって言う。そんでな、そんで、その人もうちのこと好きやったらな、ありがとうって言ってな、それで、セックスする。セックス。お母さん言うとったやろ? 好きな人のおちんちんは、全然汚なないって、な? うち、セックスいっぱいする。そんでな、うちの中の赤ちゃんの素とな、その人の赤ちゃんの素をひとつにする。な、そう言うとったやろ? お母さん。
(略)

あなたも一人じゃないよ。

 父が自殺をしてから、「自殺」や「自死」などの言葉で検索をしてネットを彷徨うことがあります。個別のブログに言及することはできないけれど、このところ、NHKが運営しているこのサイトをよくのぞいています。
 
 
 これは「自殺と向き合う」ということをテーマにしたサイトで、誰でもメッセージを投稿することできるようになっています。苦しんでいる方からのメッセージと、大切な人を亡くした方からのメッセージがあり、上記は大切な人を亡くした方からのメッセージが掲載されているページのURLです。
 
 夜、布団の中で、私は何かに縋りたい一心でこのサイトを見ているのですが、そこには悲しみが溢れていて、やりきれない文章も多く、その文章を読んだ私自身落ち込んでしまうことがあったり、涙が出てしまうこともあって、なんで見てしまうのだろうとも思うのですが、 吐露された思いに共感したり、あぁそんな考え方もあるんだと気づかされたり、自分と同じように悩んで苦しんでいる人がたくさんいるんだなって思えたりもして、と言っても、 親族や親しい人を亡くしたということだけが一緒で、全然違うそれぞれの事情やストーリーがあって 、でも、なんだか私は一人じゃないっていう風に思えたりもして、勝手に励ましてもらっている気になっていて、だから、これは文章を書いてくれたその人たちに届くことはないのだけれど、あなたも一人じゃないよ、苦しいのに書いてくれてありがとう、そうやって書いてくれた言葉に救われています、って私は言いたい。
 
 これは私が感じることで、他の方も感じているかはわからないけれど、「誰かに聞いて欲しいけれど、誰にも聞いて欲しくない」っていう気持ちが私にはある。話したい欲求はすごくあるのに、話すことで自分自身が傷つくことを恐れているし、絶対にわかってもらえっこないっていう気持ちが根底にある。だから、話したいけれど話せない。聞いてくれた方が何を言っても、自分にとっては白々しく思えてしまうだろうと思えて、話せないし、話したくない。でも誰かに聞いて欲しい。ただ聞いて欲しい。聞くだけで構わないし、むしろ、何も言って欲しくない。
 
 そして、そんな自分の気持ちがあるからこそ、苦しんでいる方にどのように接したら良いのか、私にはわからない。感じ方は色々で、私は私の感覚に自信がない。ただ、私自身がそうであるように、時に壊れてしまいそうな程の感情を感じながら、誰かと繋がりたいとも思ってしまう。近くにいる人がそんな繊細な気持ちを理解してくれて、どんな風にするのが適切かなんて自分でもわからないけれど、適切に接してくれればそれに越したことはない。でも、私にはそんな人いないし、そんな人が側にいる人なんてごくわずかなんじゃないかな。
 
 そんな風に考えた時、インターネット上の言葉は大きな力を持つことになると思うのです。わかりきったことかもしれないけれど、私はいま、私自身の実感としてこのことを強く感じていて、この気持ちを大切にしたいと思っています。

父を自殺で亡くした私に何ができるか

 先週は自分の気持ちがぐちゃぐちゃに大きくなりすぎて、壊れてしまいそうだった。 息が詰まりそうで、深呼吸をしてみても、息が詰まりそうで、本当に苦しかった。
 
 父が死んでから、初めて知った感覚がたくさんある。爆発しそうなほどの悲しみに叫び出してしまいそうな感覚や、自分は狂ってしまうんじゃないか、自分をもう保てないかもしれないという感覚、そして、絶対的な後悔。
 
 今の私はぎりぎりのところで、なんとか生きている。今となって思うことは、以前の私は何も考えずに生きていたんだなぁということ。逆に言えば、何も考えずに生きていられた。それは一つの幸せであったけれど、今はもう、違うみたい。
 
 考えることは苦しい。時にそれ自体に押しつぶされそうになってしまう。けれど、考えることは救いにもなりうる。今の私にとって、「父を自殺で亡くした私に何ができるか」というテーマは大きなものとなっている。これは、わかってあげられなかった父に対するせめてもの償いであり、その償いを通して私自身の後悔を浄化しようとしているのだと思う。
 
 でも、今さらそんなことをしたって父は戻って来ない。そんなことはもちろんわかってる。でも何かできないかと考えて行動しなければ、どうにかなってしまいそうなのだということも事実で、こんな風に何ができるかを考え、それを実行していくことは私がこれからを生きていく理由になるし、心の拠り所になる。そんな風に思っている。
 
 
 以下、 私に何ができるか、考えてみる。
(あくまで今の私の気持ちです。自死遺族の方全てが同じように考えているわけではないと思います。)
 
 
①父のことを思い出す。
 父のことを思い出してあげられるのは、私たち家族だけだと思う。
 
②考えることを放棄しない。
 後悔も多いし、苦しいけれど、それを含めて考えることは放棄したくない。その後悔にも、私は向き合いたいし、向き合わなくちゃいけないって思う。まだまだ、このブログに書けていないことはたくさんあるように思う。だから、少しずつになるかもしれないけれど、書いていきたい。それが私自身の救いになるかもしれないし、誰かのためになるのかもしれない。
 
③生きることを肯定する。
 感情を大切にして、自分の生を精一杯生きる。

harumaki12.hatenablog.com

 

④家族を大切にする。
 母、祖母、兄。今までは、家族は当たり前にいるものだと思っていた。けれど、そうじゃなかった。今、この時を大事にして一緒に過ごすことができるようにしたいし、感謝や気持ちは伝えられるその時に伝えたい。
 
うつ病認知症、自殺、心理学について勉強をする。
 私はもう、大切に思う人を失いたくない。愚かな私はきちんと気づいてあげられなかったのだけど、父はうつ病認知症、あるいはその両方の可能性があった。きちんと勉強をして、もし仮に自分の大切な誰かが困難な状況に陥った時、少しでも支えになれるようになりたい。産業カウンセラーとかの資格取得を目指すのもありかななんて思ってる。
 
⑥自殺に関連する団体や活動に参加する。あるいはその活動の支援をする。
 私はこれまでに自死遺族の当事者として、自死遺族会自死遺族が集まって話をする自助グループ)へ3回、電話での自死遺族相談へ1回、面接相談へ1回参加しています。また、自死遺族を支援するための知識を勉強するセミナーへ1回、いのちの電話運営ボランティアの方による講演へ1回、参加しています。
 いずれ詳しく書きたいと思っていますが、私は自死遺族会と電話相談に救われました。だから、自死遺族会に参加することはしばらく続けていきたいと思っています。そして、ゆくゆくは、ボランティアや寄付でそのような活動の支援をすることができたら良いななんて思っています。
 
⑦職場での配置転換。
 父が楽しみにしていたことに携わることのできるチャンスが職場にある。また、仕事として⑤、⑥に関わることのできる可能性もあるので、そのような部署への配置転換を願い出ることを考えている。
 
 
 以上、個人的なもの、普遍的なものを色々と書いてきたけれど、結局、私には、私自身のためにこれを考える必要があるのだと思う。人格のしっかりした良い人なんかでは決してなくて、それは私の後悔を和らげるためのものだから。私はこれからを生きるために考える必要があり、それを実行する必要がある。そうは言っても、まだまだ心が追い付かない部分も多いので、無理せず、ゆっくりと生きていきたい。

そこに私はいない。

私はもう前に進んでるぜ。


って、そんな風に格好よく言いたいのですが、父が自殺をして7か月が経とうとしているいま、私はまだまだそこにいるようです。すごく進んだように思える時もあれば、後退している時もあるように思います。何かがわかったような気がすることもあれば、何もかもがわからないような時もあります。


自分の気持ちに飲み込まれそうになる時があります。それでいて自分の気持ちがわからないように思います。


全ては二面性を持っているようです。(あるいはもっと多面的であるのかもしれませんが。)
この2面性のこと。今の私にとっては苦しいものになっていますが、元々は好きな概念でした。
U.N.O.BANDスネオヘアーもセルフカバーをしている)の「NO.1」の歌詞。

 

 

uno 諦める弱さ
諦められない弱さ
いずれ同じ弱さなら
全て見せてやる

(中略)
uno 変われない弱さ
変わってしまうのも弱さ
だけど僕等忘れない
大切な想い

 

 
ある一つの事実があったとして、それをどのように捉えるかで印象は大きく変わる。


変わる強さ。 と 変わる弱さ。


変わらない強さ。 と 変わらない弱さ。


どちらにも見ることはできるのです。もちろん、自殺について強いとか弱いという話をするのはナンセンスだとは思っているのですが、いま私が色々と考えていることは大抵の場合、捉え方次第でどうとでも言うことのできるようなことばかりであると思うのです。
そして、それは1か0かではっきりと区別できるようなものなんかじゃなくて、0.53と0.47みたいな、とても微妙なものなのです。そして時にはそんな中からどちらかを選びとらなければならないこともあるし、そんな風に考える余地があるからこそ、いまの私は苦しんでいるのかもしれない。
でも、いかんとも言い難いこの世界だからこそ、以前の私は楽しいと思っていたし、今もその考えは変わりません。


この考え方に関して、私はルノワールの「In The Garden」(1885)の逸話が好きです。


当時ルノワールにはお金がなかった。お金を得ようと思った時、売れるものはやはり恋人たちを描いた絵であり、彼は庭での恋人たちを描く。それは色彩に富んでいて理想じみていて、作家のモーパッサンは、ルノワールは薔薇色の眼鏡をかけて世界を見ていると批判したというもの。


その当時と感覚は違うかもしれませんが、薔薇色の眼鏡をかけて世界を見ることの何が悪いのでしょうか。むしろ、例えお金のためだったとしても、表現方法の一つである絵画において、理想を描くことは素敵なことなのではないかな。その絵に救われる人がいるかもしれないし、ものごとの捉え方は自由であるはずだ。


時に私たちは真っ黒なサングラスをかけて世界を見てしまうことがあるかもしれない。けれど、薔薇色の眼鏡をかけることもできる。これを忘れてはいけないし、それは私たちに委ねられている。そうであるならば、そうであるなら、私は薔薇色の眼鏡をかけたい。そんな風に思う。


このブログを始めて良かった。こんな風に文章を書くことは自分の考えの整理になるし、考えられたこと自体が私の財産になっている。ありがとう。