はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

悲しいことへの向き合い方

悲しいことへの向き合い方は人それぞれに違う。当たり前だけれど、感じ方、考え方は違う。家族であっても、恋人同士であっても、思いが通っていたとしても、違う。その向き合い方と、その違いから生じることについて考えを記録しておきたいと思う。(ひょっとすると、いや、ひょっとしなくても、これはただの恋愛のもつれなのかもしれませんが。)
 
当時、私には好きな人がいました。その人のことを仮にAさんと呼ぶことにします。Aさんはとても魅力的で、私にとっては「この世の中にこんな素敵な人がいるんだ!」と初めて思うほどに好きになった人でした。Aさんも私のことを好きになってくれたようですが、Aさんには婚約者がいて、やはり婚約者と結婚すると私はAさんから伝えられていました。
そんな時に父が自殺しました。Aさんはその当日、私のもとへ駆けつけてくれました。その行動に、Aさんとお付き合いをしているわけでもない私はとても驚きましたが、Aさんの相手を全力で受け入れて愛することのできるところが好きでもあったので、私は戸惑いながらも、とても嬉しかったことを覚えています。駆けつけてくれたAさんは私よりも泣いていましたが、そんな風に悲しみの中へ入ることで、悲しみを共有することで、私を励まそうとしてくれていたのだと思います。Aさんは父のお通夜にも来てくれました。
その後、お葬式やその他の手続きを終えて職場復帰をした時、Aさんのことが好きだった私は、Aさんが駆けつけてくれた勢いそのままに、Aさんに職場からの帰り道を一緒に帰ろうと声をかけていました。話をして一緒に帰る。それだけで楽しく、救われるような気がしていたのです。しばらく一緒に帰ったりしていましたが、ある日Aさんから、自分はこのまま結婚しても良いのかな、ということを言われました。既に振られている身としては、その言外にあなたのその行動が私の結婚を妨げているという意味を感じとらざるをえず(実際にそうであったのだと思いますが)、私は、あぁ、間違えてしまったという気持ちが大きくなりました。とても悲しかったのですが、私はAさんの優しさに甘えすぎていたのです。私はAさんに対して甘えすぎたことを謝り、そんなことで結婚を延期するのは違うと思うと言いました。
それからAさんは結婚しました。私の方でもAさんに頼ることのないよう、気をつけていこうと思いました。ところが、ことあるごとにAさんは私に「大丈夫?」と聞くのです。きっと心から心配してくれているのだと思うし、気にかけてくれていることはありがたいことなのですが、この「大丈夫?」が私には苦痛で仕方ありませんでした。私をかわいそうな人にしないで欲しかったし、その「大丈夫?」は心配している”ふり”でしかないように思えてしまった。だから次第にAさんと話すことすら嫌になり、怖くなり、Aさんを遠ざけるようになってしまった。Aさんに対して本当に申し訳なく思っているのですが、今では(Aさんは職場の同僚なのですが、)仕事上必要のある時だけ会話をする仲になってしまいました。それに、それどころか、Aさんに対してすごく嫌な態度をとりさえするようになってしまいました。
 
このような状況に至るには、もちろん恋愛上の要素もあるとは思うのですが、私は悲しいことへの向き合い方の違いが大きかったのかなと感じています。私自身すごく未熟です。歩み寄ることができず、一かゼロかの考え方になってしまってばかりです。相手の気持ちを推し量って仲良くすることができたはずだし、相手の立場に立ってみれば、とんでもなく酷い仕打ちをしています。それに私自身の都合の良いように理解しているところもあると思います。それでも、当時の、今の私はそんな風に振舞うことができませんでした。そんな自分を改めるためにも、その反省を込めて私は書いています。
 
Aさんは、悲しみを共有して私を理解しようと努め、一緒に悲しもうとしていた。だから、私の様子を気にかけ、「大丈夫?」と声をかけてくれた。
それに対して、私は、悲しみを共有して、Aさんにも悲しんで欲しいとは思っていなくて、今までみたいに楽しく話をしたりできれば、それだけで救われていた。だから、私はAさんと今までと同じような接し方でいたかったのだと思う。
それならば、ただ単にそう言えば良かった。そんな風にされたくはなくて、今まで通り普通に接して欲しいと。でも言えなかった。Aさんのことが好きだったし、振られていたからこそ複雑な感情を持っていたから。それにその時の自分には、その苦しみがどこからくるのか気がつくことができなかったし、Aさんのその気持ち自体はすごく嬉しかったから、Aさんの行動についてそんなことを言うことなんてできなかったと思う。そんな風に私は何も言わず、Aさんを遠ざけることしかできなかった。私は本当に愚かだ。そんなことをしたってAさんが私のもとへ来るわけでもないのに、父が戻ってくるわけでもないのに、無意味にAさんを傷つけている。
 
そんな風に考えて、当たり前ではあるのですが、悲しみとの向き合い方は人それぞれであろうと思うのです。悲しみに向き合いたくない人がいる。悲しみに向き合えない人がいる。悲しみに直面してあえて忙しく過ごしている人がいる。悲しみに押しつぶされそうになっている人がいる。悲しみで動けなくなっている人がいる。話を聞いてもらって理解されたい人がいる。一緒に悲しんで欲しい人がいる。そっとしておいて欲しい人がいる。今までみたいに接して欲しい人がいる。
悲しみとの向き合い方は、その人とある程度親密な関係にならないとわからないことだと思う。例えば会社の同僚程度の関係性であれば、最初こそ「大変だったね」と声をかけるかもしれないけれど、その後はほぼそれには触れないというのが多いと思う。それに対して、親しい場合、親しいからこそ、その人の悲しみとの向き合い方に初めて関与する権利があるというか、関与せざるを得ない状況が生じる。
これは夫を自死で亡くした母と、息子を亡くした祖母との私の付き合い方、寄り添い方にも関わってくるのだけど、本当に相手がどんな風に考えているかってなかなかわからないし、自分では対話をしているつもりであっても、十分でないことなんてたくさんあると思う。悲しみとの向き合い方は人それぞれで、悲しんでいる人への寄り添い方もそれぞれだ。だから、だから、私は何を言いたいのだろう。自分でもよくわからないけれど、悲しみに向き合うこと、悲しんでいる人に寄り添うことって想像以上に難しいんじゃないかってこと。悲しんでいる人に相対するとき、そのことをしっかりと心に留めておくことが大切なんじゃないかってことを言いたいのかな。
自分自身の気難しさを棚にあげて書いているけれど、誰かに読んでもらって少しでも何かの、こんな人間もいるのだと参考にしてもらえたら嬉しい。そしてAさん本当にごめんなさい。