はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

私が父の自殺について話し始めた理由

昨年の11月、私の父は首を絞めて自殺しました。
大きな不自由もなく、温室育ちを自称していた私としては、人生において初めての衝撃的な出来事でした。本当に父の自殺は残念でしたし、悲しかったです。このブログに書いてきているように、私の中はまだまだぐちゃぐちゃです。でも、今日はなぜ私が父の自殺についてこんな風に話し始めたのか、それを記録しておきたいと思います。
 
父が自殺をして家に帰ってきたその日、母は兄と私に父の自殺に至るまでの話をしてくれました。
時々にしか帰省していなかった私は気がつくことができなかったのですが、母によると父は精神的にかなり追い込まれていたとのことでした。数か月前には趣味だったカラオケや俳句の教室を辞め、自殺の1月前くらいからは「仕事ができなくなった、頭がまわらない」と母に相談していました。今までできていたことがなぜかできなくなったということで、食料品を買いに行くことも億劫になっていました。
自殺の1週間ほど前には近所の大きな公園へ行き、母と父は散歩をしながら「今までに無いくらい」たくさん話をし、10日後ほどに迫っている父の仕事上の重要な日まで一緒に頑張ろうと話をしました。
自殺の前日の朝、父は起きてきた時に「頭がおかしい、入院したい」と母に訴え、一緒にかかりつけ医を受診、医師からは心療内科への受診を勧められましたが、母としては認知症ではないかという考えがあったので、脳の検査をできる病院への紹介状を書いてもらいました。ところが、その後急にどうしても外せない仕事があると父は言い出し、仕事へ行きました。そして、父は翌日も仕事へ行き、昼頃、弁当を買いに行くと言って会社を出たきり行方不明となりました。
そんな話を聞いて、私は母のことが心配になりました。もちろん、私も父が自殺をしたという悲しみを感じてはいたのですが、それ以上に、母は今どんな気持ちなのだろう、その悲しみは想像を絶するものがあるんだろうな、ということを強く感じていました。だから私は母を支えたいと思いました。
 
それからは、実家から職場へ通うことにしました。もう後悔はしたくないので、しばらくは母と一緒に過ごそうと思ったのです。以前は職場から15分ほどのところで一人暮らしをしていたのですが、2時間かけて実家から職場へ通うことにしました。父が死んで、私は母と二人暮らしをすることになりました。久しぶりに母と一緒に暮らす中で、私はそれまで実家ではろくに作ったことも無かったのに、毎晩母のために食事を作りました。レパートリーは多くないけれど、母は私の作るほうれん草とベーコンのキッシュが一番のお気に入りで、美味しいと言ってくれて、何度か私は作りました。母からお母さんみたいと言われたのは、恥ずかしいような嬉しいような変な気持ちでした。そんな風に毎日母のいる実家に帰り、母の好きなテレビドラマを一緒に見ながら過ごした日々は、静かで良い日々でした。
 
そんな頃でした。私は、市が主催する自死遺族を支援するためのセミナーがあることを知り、行ってみようと思って申し込みをしました。夫を自殺で亡くした母を、少しでもうまく支えられるようになったら良いなぁというような、そんな気持ちでした。
当日は雨がぱらぱらと降っていました。セミナーの会場には4,50人の人がいて、会場の雰囲気はよくある研修のそれでした。講師の方は臨床心理士で、当時は良く知らなかったけれど、自死遺族自助グループの代表の方であるとのことでした。
講義が始まってすぐ、講師の方が自死遺族の心情をレジュメに沿って説明をされている時でした。
「・・・自死遺族は贖罪感や加害者意識などに・・・自死遺族は強い無力感や孤立感・・・」
私は、あれ?と思いました。涙が溢れて、資料へこぼれ落ちてしまったのです。私は、あれ、おかしいなと思いながら、いやいやそんなことない、大丈夫と自分を落ち着かせようとしました。けれど、全然うまくいきませんでした。その間にも、講師の方は淡々と、自死遺族がどんな風に考えているのかということをパワーポイントを使って説明していきます。それはもう、私自身の気持ちでした。私はここに来たことを後悔しました。間違えちゃった。私は涙がとまらず、生まれて初めて叫びだしそうになるほどの感情が、悲しみが爆発しそうになりました。頭がおかしくなりそうでした。そしてその一方で涙がとまらないのです。私は荷物を乱暴にまとめて抱え、研修室の外へ出ました。部屋を出る時、部屋の後ろにいた運営側と思われる方が何か言いたそうにしていましたが、研修室で急に嗚咽し始めて、急いで部屋を出る私には何も言えなかったようでした。部屋を出て、私はロビーのような場所の円形のソファーへ座り、嗚咽を漏らしながら、震える手で抱えていた書類や筆記用具をリュックへ入れました。
 
今はこんなブログを書いている私なので信じられないかもしれませんが、この時まで私は自分自身の悲しみにはほとんど気がついていませんでした。母を支えたいという気持ちだけで動いていたのです。でもこんな風にして初めて、私は自分自身も悲しみと苦しみの渦中にいることに気がついたのです。だから私自身も悲しみに、父にきちんと向き合わなければいけない。それは私自身のためであるし、そうしなければ母のことを支えられるはずもないだろうと思ったのです。
 
そうして私は初めて自死遺族会へ行って父の自殺について話をし、このブログへ父の自殺について書き始めました。