はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

最後の瞬間

時々、父の最後の瞬間とその瞬間へ至るまでの父の行動のことを考えます。

 

首つりについて  

病院で受け取った「死体検案書」には死因として、「非定型縊死」とありました。縊死という言葉、この時まで私は聞いたことすらなかったので、調べてみると、縊死とは首つりのことであるとわかりました。警察からの連絡があって、警察署へ向かっている段階で自殺であるということはわかっていたので、その時は死体検案書の内容についてはそれほど気に留めていなかったのですが、葬式が終わってスケジュール的に一息ついている時、何気なく死体検案書をみていると、非定型という言葉がひっかかりました。調べてみると、定型がいわゆる首吊り自殺のことで、体が浮いている状態。非定型というのは、足をついていたり、寝ていたり、様々な状態で首を吊って死ぬことであるということがわかりました。ということは、父は自殺をする時に座っている状態あるいは寝ている状態で、自らの首を絞めたということになります。定型縊死であれば、映画やドラマでも時々描かれるように、ロープを首へかけ、足場としている椅子を倒すことで、ある意味、ひと思いに自殺を完遂してしまうのかもしれません。ところが、非定型縊死はどうなのでしょうか。上記のことをネットで知った程度であるので、ひょっとすると違うのかもしれませんが、そこには確固たる父の気持ちがあるような気がしてなりません。定型縊死であれば、一瞬の思い切りで自殺は完遂されてしまうような気がするのです。ところが、非定型縊死は体が地面へ接着している分、最後まで、意識がなくなるまでそこには自殺を完遂するための強い意思があるように思えてならないのです。そんなに死にたかったのかな。今となっては何もかもが遅いけれど、私は父にただ生きていて欲しかった。生きていてさえいてくれれば、それだけで良かった。月並みではあるけれど、やっぱり大切なことは失ってから気がつくんだなって思います。その時には何にも感じていなくて、なんにもわかっていなくて、育ててもらった感謝の気持ちも全然伝えられなかった。本当に愚かでばかな自分。

 

公園の公衆トイレについて  

父の自殺から一月が経った日、私は母と自殺の現場へ行くことにしました。父の最後の場所を自分の目で見たかったのです。その公園は臨海工業地帯の根本を縦断する県道沿いにあり、一方の車線からしか入ることのできないような、初めて行く人にはその入り口がわからないような小さな公園でした。父が勤めていた会社から近いというわけではありませんでしたが、そんな場所だったので、おそらく何度か行ったことのある公園であったのだと思います。公園の向こう側には大きな水路があって、流れが少なくたくさんのごみが浮いていたのをよく覚えています。父が自殺をしたのは、その公園の公衆トイレの中でした。車を10台も止められない小さな駐車場から20メートルも離れていない公衆トイレをのぞいてみると、左右に黄色い手すりがついていました。あぁここにひっかけたんだなと思うと同時に、なんでこんなところでととても悲しい気持ちになりました。公園の公衆トイレです。少し臭いがして、暗くて、じめじめしていて、そんな感じの公園の公衆トイレです。わざわざこんな寂しいところで死ななくても良いのにと、とても悲しい気持ちになりました。なぜ父はそんなところで死ななくてはいけなかったのでしょうか。

 

最後の瞬間  

死体検案書によると、父が死んだ時間は午前0時頃となっています。上記のような公園ですから、周辺の夜間人口は少なく、人はほとんど、あるいは全くいなかったのだろうと思います。父は、その日のお昼時に弁当を買いに行くと言って会社を出たきり行方不明となりました。およそ12時間、どこで何をしていたのか。私には全く想像がつきません。ただ、その公園に行った父。自動車から降りる父。実際に父の首を絞めることになった大型の黄色いメジャー。暗闇の中、明るく光りを発する公衆トイレ。そしてそこへ歩いていく父の姿。そんなものが私には見えるようです。本当に悲しい。