はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

ロベルト・ボラ―ニョ『2666』

 長かったけど、最後の部を読んでそこまで読んだ甲斐があったように思うし、おもしろかった。でもとにかく長い。855ページの2段組み。ハードカバーなのだけど、本の厚さを測ってみたら5センチもあった。実に1月半くらい読んでいたかなぁ。本を読むことをしたい、という方はぜひ読まれてください。(定価は6600円+税なので、1冊の小説としては意味わかんないくらい高いです。私は図書館で3回くらい借りました。)
 
 作者は2003年に50歳で亡くなっていますが、遺作となったこの『2666』で、バルセロナ市賞、サランボー賞、2008年度全米批評家協会賞を受賞しているとのこと。
 
〈本の内容〉
 アルチンボルディという作家に関連する物語。5部構成となっていて、一言で表すとこんな感じ。
1部 『批評家たちの部』 
    作家アルチンボルディの批評家である3人の男性と1人の女性の四角関係。
2部 『アマルフィターノの部』
    アルチンボルディの翻訳家でもあるアマルフィターノの精神的な意味での孤独な闘い。
3部 『フェイトの部』
    記者フェイトがメキシコでの女性連続殺人事件を追っていくようになるまでの話。
4部 『犯罪の部』
    メキシコで発生している女性連続殺人事件の羅列。
5部 『アルチンボルディの部』
    アルチンボルディの人生を描いたもの。
 
〈どこがどんな風に良かったか。〉
 物語の大筋はたいして重要には思えなくて、魅力的な挿話や膨大な文章の中にある登場人物が語る”真実”がとても魅力的な物語だった。特に魅力的だったのは、アルチンボルディの部。そしてその中の、ユダヤ人アンスキーの手記、そしてその中の挿話であるイワノフの物語が良かったかな。悪趣味かもしれないのだけど、その人の魂をわけてもらっているような打ち明け話を聞くことって、とてもワクワクすることだと思う。小学生や中学生の頃に友達とお互いの好きな人を打ち明けた時みたいに、その人を形作っている、根幹をなすようなものを共有することってとても嬉しくておもしろいのです。好きな人をそんな風に例えるのはちょっといきすぎかもしれないけれど、当時はそれほどに大きな意味を持っていたという意味で。そしてこの本には至るところにそんな部分があったように思う。だからおもしろかった。
 
 いくつか良いなと思った場面を抜粋してみる。それぞれがそれぞれの真実に、真理に到達していて、それを横から教えてもらっているのです。楽しい。
 
要するに、乱暴な言い方をすれば、ぺルチエとエスピノーサはザンクト・パウリのあたりをぶらついていたときに、アルチンボルディの調査を行っても自分たちの人生は決して満たされないだろうということに気づいたのだった。彼の作品を読むことはできる。彼を研究することもできる。細かく検討することもできる。だがアルチンボルディで死ぬほど笑ったり落ち込んだりすることはできないのだ。ひとつにはアルチンボルディがつねに遠くにいたからであり、またひとつには、彼の作品は深く入り込むにつれ、探究者たちを憔悴させるからだった。要するに、ぺルチエとエスピノーサはザンクト・パウリで、そしてその後、亡きブービス氏と作家たちの写真が飾られたブービス夫人の家で、自分たちがしたいのは愛を交わすことであって、戦うことではないと悟ったのである。
(批評家たちの部 37p)
 

名前に運命が隠されていると考える人がいる。わたしはそんなの嘘だと思う。(中略)ひとつ言ってもいいかしら? 名前なんてどれもありふれているわ、どれもどこにでも転がっている。ケリーだろうが、ルス・マリアだろうが、結局は同じこと。名前なんてみんな消えてなくなるのよ。そういうことを小学校のときから子供に教えなくちゃいけない。でもわたしたちはそれを教えるのが怖いのよ。

(犯罪の部 585p)