はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

やさしくてあたたかな気持ち

少し前、仕事の関係でFACEBOOKのアカウントを作らなくてはならなくなった。
SNSは苦手だから嫌だなぁと思っていたけれど、登録してみると、おとんのFACEBOOKが出てきた。
おとんがFACEBOOKをしていたことは知らなかったけれど、なんとなく、あそっかやってたんだ、みたいな気持ちになった。おとんには少しミーハーなところがあった。私はおとんのアカウントをクリックする。友達は10人くらいいて、兄の名前もあった。投稿はしていなかったみたいだけど、写真が2枚。
少し前傾姿勢のおとんらしい格好でこっちを見ている写真と梅の花の写真。どちらも3年前の春頃、家から近いちょっとした名所のようなところで撮った写真のようだった。この2枚の写真を見て私はなんだか泣きそうになった。おとんが自殺してから2年が経って、当たり前だけどおとんと2年以上会話をしていないなかで、唐突におとんの存在が、おとんの新しい情報が自分の中に入ってきたから。そしてこれもまた当たり前なのだけど、あぁそうか、おとんは確かにそこにいて、生きていたんだと私は思った。確かにおとんは生きていた。なんだかそれだけで十分で、私はやさしくてあたたかな気持ちになった。
 
2月末に引越しをすることになった。
これは4月からの新しい生活に備えるためのものなのだけど、引越しは私に父のことを思い出させる。父は不動産の営業をしていたから兄と私の引越しの際にはとても張り切っていた。
私の場合、1度目は大学受験。私は他県の大学を第1希望にしていて、センター試験の結果や事前の模試から言えば、私は合格圏内にいた。二次試験の後、今思うと無茶苦茶な気もするのだけど、父は勝手に部屋を決めてきた。父は早くしないと良い部屋が無くなると言った。私は内見すらしなかったように思うけど、特にそのことに何かを思うこともなく無事大学に合格し、その部屋へ引越した。引越しは父の運転する車で行ったように思う。その部屋は角部屋で日当たりが良く、静かな良い部屋だった。私は就職するまでその部屋に住んだ。
2度目は転勤で実家のある地方へ引越しをした時。この時も父は張り切っていた。ただ、私も社会人として働き始めていて部屋を決められる程度の社会常識は備わってきていて、今回は一緒に部屋を決める形になった。2つの不動産会社と5つか6つの物件を周ったように思う。うろ覚えだけど、そのうちの1つで私はここが良いと言ったら、父はこの部屋は良いぞと言ったような気がする。私は父と決めたこの部屋に長く住んだ。ここはとても良い街で、とても良い部屋だった。
引越さなくてはならなくなって部屋を探している時、私は父のことを思い出していた。年甲斐もなく、父がここにいたら良いのになと思った。張り切る父に部屋選びを任せたいと思った。でもここに父はもういなくて、私は1人で部屋を選ばなくてはならなかった。寂しさは感じたけれど、父への感謝の気持ちと、やさしくてあたたかな気持ちが込み上げてきた。