はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

一年が経ち、孤独感は増し、

あとひと月ほどで父が自死をしてから1年が経ってしまう。
あれから私はなにも変わってなくて、むしろ虚しさや孤独感が大きくなるばかりです。
確かに緩やかな忘却があって、自死遺族であることに対する慣れは大きくなってきているけれど、それに伴って孤独感が増しています。

どういうことか。
まず一つには、家族で父の自殺について話をする機会が減ってきているということ。母と兄の本心はわからないけれど、「いつまでも悲しんでばかりはいられないし、前を向かなきゃいけないよね。」みたいな空気が家族の中で生まれてきています。表面的には話をすることはあるけれど、父の自殺の原因とか、深い部分での会話は難しくなってきているように思います。
私自身はまだまだ何一つ父の死を整理できていないから、本当はもっともっと父のことについて話をしたいのだけど、前を向こうとしている人にあえてそんな話をすることは躊躇われてしまうのです。

二つ目は、自死遺族同士は繋がれないのかもしれないと、私自身が思い始めていること。
誰でも良いから話をしたい。繋がりたい。誰かにわかって欲しい。そんな気持ちがあって私はこのブログに父の自死について書き始めました。けれど、自死遺族同士の双方向のコミュニケーションは大変むつかしく、それぞれの全く異なるケースの中で、私たちは一方的に発信し、一方的に受け取ることしかできないのかもしれないと思うのです。私自身、自死遺族の方へどんな風に声をかけて良いのかわかりませんし、声をかけられたくもないとも思ってしまいます。
自死遺族会がこのような一方的な発信であることからも、確かにそれは癒しの一ステップであるのかもしれません。でも、私はそこに少し寂しさを感じるのです。私たちは悲しみの中にいる。正解のない問答を繰り返している。でも、この状況を脱することが目標なのか、と言うとそういうわけでは決してないと思うのです。
自死遺族の方のブログがいつかの時点でぱったりと更新されなくなる。
これに対する言説として、悲しみに対する折り合いをつけたんだとか、立ち直っただとか、そんな風に言うことができてしまいますが、私は少し違うと思うのです。私たち自死遺族は、結局誰とも繋がれない。結局のところそれぞれがそれぞれでそれぞれの悲しみに向き合うしかなく、独りなのです。そんな孤独を強く感じて、発信することを辞め、諦観にも似た感情を持つようになったのではないかな。そしてそんな諦めと慣れの中を気だるく生きていく。
いつまでも発信をし続けて欲しいとかそういう話ではないんです。多分、どこかに、誰かに、答えを求めたくて誰かと繋がりたくてブログを始めるけれど、むしろその中で逆に独りであることが浮き彫りになってしまった、そこには孤独があったのではないかなと、勝手に想像しているだけなのです。私みたいに。