はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

にゃにがにゃんだーにゃんだーかめん

 それと同じころ、「物質」の究極の原理を追い求めていた、ある年老いた物理学者が、不可解な発見をした。「物質」を形作っている、もっとも小さく、それ故、もっとも根源的な「もの」でもある、一群の粒子の中のひとつが、いつの間にか消失していたのである。
(中略)
「もし・・・・・・その、もっとも根源的な物質、あるいは、粒子が、さらに、二つか三つ、消えたとしたら、どうなる?」
「同じだよ。やはり、あらゆる物質、そして、空間が、やはりまったく同じ割合で縮むだろうよ」
「そして、それを感じることは誰にもできないんだね?」
「そうだ」
「だとしたら・・・・・・」
 生物学者は、少しの間、いい澱んでから、こういった。
「そのことに、どんな意味があるんだい? というか、我々になにか関係があるのかい?」
 物理学者は眩しそうに目を細め、「意味・・・・・・関係・・・・・・なるほど。そんなことは考えたことなどなかったよ」と弱々しく呟くと、崩れ落ちるように、椅子に腰かけた。
高橋源一郎「さよなら クリストファー・ロビン」)

 

今日は苦しかった。
とても虚しかった。

 

父のことを考えることを辞められないけれど、考えて、考えた結果が自分の中に生まれたとして、だったらなんなの?という考えにもまた囚われてしまう。

 

今までに色んなことを考えてきたけれど、それで父が戻ってくるわけではないのに、根源的には意味が無いのに、考えることを辞められない。

 

考えることを辞めたいのかと言ったら、そういうことでもなくて、考えることは放棄したくない。
でも考えることに意味が見出だせなくなってきていることもまた事実で、もうよくわからない。

 

そもそもこんな風に考えていること自体、全て私自身の苦しみの浄化のため以外の何ものでもないことは明らかで、父のために考えているわけではない。

 

生きることを肯定したい?
うん、肯定したとして、だったらなんなのか。そのことになんの意味があるのか。私にはわからない。

 

考えることに意味はあるのだろうか。
いっそのこと考えるのを辞めてしまいたい。でも考えるのを辞められない。

 

日が経つにつれて、それが過ぎ去ってしまった過去になりつつあることを感じていて、そんな風に感じてしまう自分が嫌になって、それでも感情の起伏は確実に小さくなってしまった。

 

理屈じゃないことだっていうことはわかってる。
でもその理屈じゃないっていうことの向こう側に私は行きたくて、意味付けをしなければ保てないのかもしれない。

 

我ながら意味不明だけれど、私にとっては切実でもうにゃにがにゃんだかわからないのです。

誰か答えを教えて。