はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

「かぐや姫の物語」を今さらながら考える

今さらですが、私は「かぐや姫の物語」(高畑勲監督、2013年)が好きです。
初めて見たのは劇場で。その時も涙しましたが、今までに何回か見て、その度に涙を流しています。
今まで、これは人生賛歌だと、なぜだかそんな風に思いながら感動していたわけですが、その感動の理由を考えてみます。
 
 
かぐや姫心理的変遷から』
日本最古の物語とされる竹取物語をアニメ化し、見るものに大きな感動を与えている理由は、かぐや姫心理的変遷を丁寧に描いたことにあると思います。
以下、私なりに分解するとご覧のように分けられます。
 
①無垢
②違和感、葛藤
③葛藤、諦観(決心までとはいかない)
④より深い諦観
⑤諦観の揺らぎ
⑥生きることへの気づき
⑦限られた生を生きる
 
ひとつずつの項目を代表的なシーンと合わせてご紹介します。
 
①無垢
 捨丸達と遊んでいたころや、都へ来て衣装を見て喜ぶシーンなど
②違和感、葛藤
 眉を抜いたり、お歯黒にすることに抵抗を示し、都で高貴な姫君となることへの違和感を感じます。
③葛藤、諦観
 名付けの宴で心無い言葉を聞いて都を飛び出し、山へ帰るものの捨丸たちはそこにおらず、その出奔自体が夢だと気がついたころから、かぐや姫は手習いでふざけることもなく、ここで生きるほかないと感じ、一人静かに過ごすようになります。
④より深い諦観
 5人の公達へ無理難題を押し付け、花見に出かけるものの身分の低い者の赤ん坊とぶつかり平伏されてしまったことや、都で鶏泥棒をする捨丸を目撃してしまったことから、かぐや姫自身がいかに「生きる」ことから遠いところへ来てしまったのかを悟ります。
⑤諦観の揺らぎ
 都での生活に諦めを見出すことで心の平安を保つかぐや姫でしたが、石作皇子による「野辺に咲く花のように生きよう、ただ己の心のままに生きよう」という告白に心を動かされたり、中納言の死から、自らの諦観は意味のないもので、自分自身が偽物であると感じます。
⑥「なぜ生きるのか」への気づき
 帝の求婚をきっかけにかぐや姫は多くのことを悟ります。自らが月から降ろされたものであったこと、なぜ生きるのか。「もう遅い。なにもかも。この地で何をしていたのでしょう。」、「生きるために生まれてきたのに。鳥や獣のように。」とかぐや姫は言います。
⑦限られた生を生きる
 帰りたい。というかぐや姫の言葉を聞き、媼が車を仕立てます。故郷の山へ帰ると、捨丸との再会を果たします。捨丸は生きることの象徴となっているような気がします。かぐや姫自身も「捨丸兄ちゃんとなら、幸せになれたかもしれない。いまそれがわかった。」と言い、束の間の自らの生を生きますが、それは「遅すぎ」ました。「この地に生きる喜びと幸せ」をかぐや姫は見出すことができたのですが、月へ帰らざるを得ませんでした。
 
以上、かぐや姫心理的側面を分解したものですが、この心理的変遷をどう感じるか、ということが感動の理由であると思います。
 
私の場合、前半におけるかぐや姫の葛藤から諦めに、自分の生をなかば諦めている姿勢を重ね合わせて感情移入し、後半でのかぐや姫が生きる喜びと幸せを見出す姿に憧れを抱いているのだと思います。
かぐや姫の場合、翁による都での高貴な姫君となるための英才教育のために違和感・葛藤が生まれますが、これが不可抗力的なものであるがために、選択することのできる現代において自分が決定してこなかったことを棚上げして感情移入することができるのではないかと思います。
また、諦観を超克する姿については、純粋に乗り越えることへの憧れと、その後の悲劇性に美しさを感じて惹かれます。
 
以上のように考えてくると、私が「かぐや姫の物語」を人生賛歌であると感じ、惹かれる理由は、生における不可抗力的な困難に直面したかぐや姫が違和感、葛藤、諦めを通して「生きる喜びと幸せ」を見出し、無条件で生を肯定する境地に達するからでしょうか。そしてそこには、何もかもが思うようにならない悲劇的な美しさもあります。
 
 
『生きるとは何か。』
かぐや姫は 「 この地で何をしていたのでしょう。」 、「生きるために生まれてきたのに。」と、「この地に生きる喜びと幸せ」を見出します。
言葉通りにとるならば、生きるために生まれてきたのに、生きていなかった、となりますが、この生きるとは何なのでしょうか。
 
これを考えるにあたっては、捨丸の存在が重要なものになると思います。この物語において、かぐや姫がいきいきと生きているのは、山にいた子供の頃と捨丸と再会を果たした時です。
1度目は、かぐや姫が遠くへ行ってしまいそうな気がするという捨丸に対して「たけのこはいつまでも捨丸兄ちゃんと一緒だよ。ずっとずっと捨丸兄ちゃんの手下だよ。」と言った時で、これは無垢であるが故の生であると思います。
2度目は、再会した捨丸に対し「捨丸兄ちゃんとなら私、幸せになれたかもしれない。いまそれがわかった。」、「生きている手ごたえがあれば、きっと幸せになれた。」と言った上で、「 天地よ、私を受け入れて 。」と超越的な言葉を発します。こちらは、葛藤、諦観を経て得られた生きる喜びと幸せに裏打ちされた生であると思います。
2度目の生をかぐや姫の発言から定義づけるのであれば、『「喜びも悲しみも、この地に生きるものは彩に満ちて」いて美しい。「鳥や獣のように」、「生きるために生まれてきた」私たちは「生きている手ごたえ」を大切にして生きていこう。そうすれば、「きっと幸せになれ」る。』となるのでしょうか。
生きることを肯定すること。言葉ではこんな風に書けてしまうものではありますが、この言葉のなんと重いことでしょう。