はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

そこに私はいない。

私はもう前に進んでるぜ。


って、そんな風に格好よく言いたいのですが、父が自殺をして7か月が経とうとしているいま、私はまだまだそこにいるようです。すごく進んだように思える時もあれば、後退している時もあるように思います。何かがわかったような気がすることもあれば、何もかもがわからないような時もあります。


自分の気持ちに飲み込まれそうになる時があります。それでいて自分の気持ちがわからないように思います。


全ては二面性を持っているようです。(あるいはもっと多面的であるのかもしれませんが。)
この2面性のこと。今の私にとっては苦しいものになっていますが、元々は好きな概念でした。
U.N.O.BANDスネオヘアーもセルフカバーをしている)の「NO.1」の歌詞。

 

 

uno 諦める弱さ
諦められない弱さ
いずれ同じ弱さなら
全て見せてやる

(中略)
uno 変われない弱さ
変わってしまうのも弱さ
だけど僕等忘れない
大切な想い

 

 
ある一つの事実があったとして、それをどのように捉えるかで印象は大きく変わる。


変わる強さ。 と 変わる弱さ。


変わらない強さ。 と 変わらない弱さ。


どちらにも見ることはできるのです。もちろん、自殺について強いとか弱いという話をするのはナンセンスだとは思っているのですが、いま私が色々と考えていることは大抵の場合、捉え方次第でどうとでも言うことのできるようなことばかりであると思うのです。
そして、それは1か0かではっきりと区別できるようなものなんかじゃなくて、0.53と0.47みたいな、とても微妙なものなのです。そして時にはそんな中からどちらかを選びとらなければならないこともあるし、そんな風に考える余地があるからこそ、いまの私は苦しんでいるのかもしれない。
でも、いかんとも言い難いこの世界だからこそ、以前の私は楽しいと思っていたし、今もその考えは変わりません。


この考え方に関して、私はルノワールの「In The Garden」(1885)の逸話が好きです。


当時ルノワールにはお金がなかった。お金を得ようと思った時、売れるものはやはり恋人たちを描いた絵であり、彼は庭での恋人たちを描く。それは色彩に富んでいて理想じみていて、作家のモーパッサンは、ルノワールは薔薇色の眼鏡をかけて世界を見ていると批判したというもの。


その当時と感覚は違うかもしれませんが、薔薇色の眼鏡をかけて世界を見ることの何が悪いのでしょうか。むしろ、例えお金のためだったとしても、表現方法の一つである絵画において、理想を描くことは素敵なことなのではないかな。その絵に救われる人がいるかもしれないし、ものごとの捉え方は自由であるはずだ。


時に私たちは真っ黒なサングラスをかけて世界を見てしまうことがあるかもしれない。けれど、薔薇色の眼鏡をかけることもできる。これを忘れてはいけないし、それは私たちに委ねられている。そうであるならば、そうであるなら、私は薔薇色の眼鏡をかけたい。そんな風に思う。


このブログを始めて良かった。こんな風に文章を書くことは自分の考えの整理になるし、考えられたこと自体が私の財産になっている。ありがとう。