はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

一切は流れていきます

私の父は昨年末に自殺しました。


それまでは一人暮らしをしていたけれど、実家に戻り母と4ヶ月一緒に暮らしました。父の自殺の兆候に気がつけなかったこと、助けてあげられなかったこと、家族と言えども根本的には理解できないのではないかと思っていることから、せめて一緒にいることで母の悲しみに寄り添い勇気づけたかった。やっぱり私は母も自殺してしまうことを怖れている。きっとそんなことはないと思うのだけど、じゃあ父の兆候にはなぜ気がつかなかったの?という問が出てきて、母も死んでしまわないかという考えが出てきてしまう。


そんなことを考えながら実家で過ごしていたけれど、時間は過ぎていく。私自身の仕事や生活もある。いつまでもは一緒にいられないし、母もそれを望んでいない。既に一人暮らしに戻って来てしまっているのだけど、一人になると自分自身が今まで父の自殺にきちんと向き合えていなかったことが見えてくる。母が心配である、ということで自分自身の悲しみからは目を背けていたのです。まずは私自身も父の自殺に向き合っていかなくちゃと思う。でも、母もまた一人になって何か考えてしまうものがあるのではとも思うのです。もちろん、別々に暮らすようになっても連絡をとったり、一緒に出かける計画をたてたり、自死遺族会の存在を伝えてみたり、いま自分にできると思うことをやっている。


でもなにかが足りないのです。なにか他にできるような気がするのです。どうしたら良いのかわからないのです。ひょっとすると、何事もなく、時間は過ぎていくのかもしれない。
でも、それはなんだか嫌なのです。時間が過ぎていってしまうのがこわい。私の今のこの気持ちが薄れていくのがこわい。時間がたてばきっと色んなものが変わってしまう。考える時間が足りないから、少し待ってほしい。私は立ちすくんでいるのに、時間は過ぎていってしまう。どうしたらいいのか、私にはわかりません。

生きることを肯定すること

生きることを肯定すること。
これが私の人生のテーマだ。なんて最近考えるようになった。
なぜそんな風に考えるようになったのか。きっかけは、新海誠展に行った時に見た秒速5センチメートルに関するインタビューの抜粋。
 
「当時強く思っていたのは、「こういう映画を必要としている人が世の中にはたくさんいるに違いない」ということでした。どれも悲しい話ではあるんだけれども、登場人物たちを美しい風景の中に置くことで、「あなたも美しさの一部です」というふうに肯定する。それによって誰かが励まされるんじゃないかと思っていたんです。」
 
月並みな表現だけど、まさに雷に打たれたような気持ちになりました。元々、秒速5センチメートル言の葉の庭が好きだったのだけど、それは、あの頃のはかない恋への憧れからくるものなのかなぁ、なんて思っていたのだけど、そんなことを考えて作られていたと知ってすごく驚いたのです。確かに秒速5センチメートルで言えば、男性主人公のラストは決して良いものではないにも関わらず、一歩を踏み出すような前向きなものを感じるもんね。
新海は美しい風景によって登場人物を肯定していた。それによって私も励まされていた。だから好きだったのなら、なんだか嬉しい。そう思った。生きることを肯定することってとても美しいことだと思うから。
 
そこまで考えてきて、ふと、自分の好きな他のものを考えてみた。小説、映画、絵とあるけれど、全てしっくりきた。どれも生きることを肯定しているように思えた。こんなふうに。
 
小説
 → 高橋源一郎の最高傑作だと個人的には思っているのだけど、世界が少しづつ壊れていく中でも最後まで希望を持ち続けるプーが、そして、壊れていく様子の描かれ方がとても美しく、生きることの喜びが浮かび上がっているのではないかと思ってる。
 
映画
かぐや姫の物語」(高畑勲監督、2013年)
 → これは、以前書いたので省略 

harumaki12.hatenablog.com

 

レ・ミゼラブル」( トム・フーパー監督、2012年) 
 → 不幸な境遇にある人達がそれでも力強くひたむきに生きていく様はとても美しいと思うし、民衆の歌の場面なんて理屈抜きに、人間を、ひいてはその中に含まれる自分を手放しで肯定してくれているような感覚にさせてくれる。
 
ルドン《グラン・ブーケ》(1901年)
 → 今までに3回ほど見に行っているのだけど、初めて見た時の衝撃は今でも忘れない。実物を見たことがなければ、普通の花の絵のように感じてしまうかもしれないけれど、これ、248.3×162.9cmっていう寸法で、とても大きなパステル画。すごく立派で、命の美しさを感じさせてくれるものだと感じてる。
 
川村清雄 《建国》(1929年)
 → これも本当に立派なんだよな。自分の表現力が無くて笑ってしまうけど、メインに配置されている鶏が本当に立派でかっこよくて堂々としていて、生きてるって感じるんだよね。そう。生きてる。だから好き。
 
理屈なんて抜きに認められて肯定されたい。あなたは生きているだけで美しいと、存在を受け入れてもらいたい。一人で良いから、そんな風に肯定して欲しい。そんな風に自分は思っているのかなって思う。そして、大切だと思える人に対してそんな風に接したい。どんなことがあっても、見返りなんて考えずにそうやって肯定したい。
なんだかこの前読んだ綿矢りさの「ひらいて」みたいだ。すごく影響うけてるのかも。でも、この考えは自分の父が自殺したことや恋愛からも感じていることでもあるから、これが私にとっての一つの真実であることに変わりはない。
 
でも、さて、どうしたらあの人の、私の生を肯定することができるのでしょう?
愛すること?優しくすること?
じゃあ、愛ってなに?優しさってなに?
ここでまたよくわかりませんね。
 
でも、私は(すぐに忘れてしまうような気がするけれど)いつまでもこの気持ちを忘れないでいたい。

なんで人は自殺するのだろう。

会社へ向かって歩いている時にこの疑問が頭に浮かんだ。なぜだろう。とてもむつかしい気がする。
 
生きるのが嫌になったから。
死ぬことしか考えられなくなってしまっているから。
死ぬしか選択肢がないから。
復讐として。
けじめとして。
自分が死ねば全て解決するように思えるから。
不治の病や老いを考えたとき、死ぬことが合理的に思えるから。
うつ病などの精神的な病を抱えているから。
自分の介護で迷惑をかけたくないから。
仕事ができなくなったから。
認知症に恐怖を感じて。
生きることに絶望して。
ぼんやりとした不安。
なんとなく。
魔が差したから。
 
自分で出せたのはこれくらい。当然列挙された抽象的な理由の後ろには、死にたくなってしまうほどの個別の理由がある。本当に苦しいものだと思うし、当事者の方に私がうんうん理解できるよだなんて言えないほどに悩んだ結果だと思う。
でも今日歩きながら思ったことは、自殺してしまった方は生きたいから、生きたかったから自殺するんじゃないかなって。生きたいからこそ悩むし、前提として生に対する信頼や肯定があったからこそ、それに裏切られた時に大きな絶望がある。生きたいからこそ、ぼーっと生きているような人たちとは比べ物にならないくらいに自らの生を深く考える。それはとても大変で、すごいことだと思う。がんばったね、おつかれさまって声をかけてあげたい。そしてその結果が遺された人たちにとって残念なものになろうとも、もちろん死ぬことしか考えられなくなってしまっていたり、衝動的なものもあるかもしれないけれど、それは生きたいという気持ちがあってこそのものなのではないか。生きたいから自殺をするんだ。生きたいという気持ちが少し不器用な形で表に出てきた時、自殺という形になってしまっただけなんだって。そんな風に思った。
書いてて理想論に過ぎるし、がばがばな話だなーとは思うけど、父が自殺をした自死遺族の一人として、父が生きて自殺したことを前向きに捉えるためにこんな風に考えたいみたい。
 
こんなことを言っても仕方ないけれど、別の一視点として、ある時点で自殺の発明があって(最初の自殺をした方がどんな人でどんな理由であったのかはわからないけれどこんな風に言ってごめんなさい)、社会的に生きるための一つの選択肢として認知されるようになった。だから人は自殺する。自殺を知ってしまったから。そう思うと、知ることは罪なことだなぁと思うけど、自死遺族の自殺率が高いことからも言えることなんじゃないかな。もちろん、私も他人事ではなくて、この事実と付き合っていかなくちゃならない。
だからこんな風に人がなぜ自殺するのか考える。なんでなんでしょうか。