4年
今日で4年が経つ。
今日、たまたま、大学院の講義で過労自殺を扱う講義があって、講義の中で10分ほど、遺族の方のメッセージを弁護士の先生が代読する場面があった。
事件は本当に悲しいもので、聞いていて涙が出てしまった。
その後、母と30分ほど電話で話をした。
話はやはり、父を助けられたか否かということに及んでいく。
自殺の兆候に気がつけたか?
今となってはどんなことも兆候とみてしまうよ。
そこまで本人は追い詰められていたのだろうか?
本人も今までできていた仕事がなぜかできなくなっていく中で、混乱していたのかもしれないね。
気がついたとして助けられたか?
8月に内科を受診したとき、心療内科の受診を勧められていたのに自殺をするまで受診しなかったんだよね。
一回は行ったんだけど、その日、心療内科はお休みだったの。
そんなことを話した。
今までに何度もしている話だけど、これからもしていく話なのだと思う。
父が死んで、私の人生は変わった。
大学院、イベント、自分のやれることを模索している最中なのだと思う。
それでも時々、自分はなんでこんなことをしているのかと思うことがある。
弱気になって、こんなこと意味がないんじゃないかと思えることがある。
少し満足してしまって、これくらいで良いかなと思ってしまうことがある。
イベントは想いを分かち合うことを趣旨にしたイベントなのだけど、このイベントのことを考えている時、私は本当に楽しいし、それが誰かのためにも、少しずつだけど、なっているという実感も得られている。
このあいだ、カウンセラーの方に「こういうイベントをしてくれてありがとう。きっと誰かのためになっている。」ということを言ってもらえた。
うれしかった。なんだろうな、いまはこのイベントが私の全てと言っても良いのかもしれないな。
このイベントがあったら父を救えただろうかと考える。
でも、きっと救えない。そもそも父はこのイベントには来なかっただろうなぁと思う。
どちらかと言えば、想いを分かち合うということを少しばかにした発言もしたかもしれないなとも思う。
でもそれでも良い。
私はカウンセラーの方にこんな風に答えた。
ありがとうございます。でも、これは全部自分のためにやっているんです。自分がやりたいからやっているだけなんです。全て自分のためなんです。
おとん!
おとんの子どもで良かったよ!
ありがとうね。
読み返したら脈絡のないよくわからない文章です。
うん、でもこれでも良いのです!
当事者であること
刹那的に生きること
おとんが死んでから、EDMが好きになった。
最初に好きになったのは、アヴィーチーのdear boyで、今も一番好きな曲。
なぜこの曲を聞くに至ったのかはわからないけど(たぶんYouTubeのしわざ)、何度も繰り返されるリズムや動画の光の明滅が、その時の私にはとても心地よかったのだと思う。
私は音楽に詳しくないけれど、EDMは不思議な音楽だなぁと思う。繰り返される一定のリズムや光の明滅によって「今」を感じる。聞いていると、なぜだか「生きてる」って思う。だからわたしはEDMが好き。
それに、EDMの歌詞も私は好きだ。
当時好きだった人に振られてしばらくして、父が亡くなった。EDMは、淡く刹那的な想いをテーマにする曲が多いような気がする。dear boy も片想いをする女の子の心情をうたった曲で歌詞自体は切ないけれど、その想いは刹那的で、繰り返されるリズムには力強ささえ感じられる。私はそれを美しいと思う。
刹那的であることは良いことだと思う。
ともすると揶揄される対象にもなりえるけど、刹那的に生きることはこの今をちゃんと生きていることの証でもあるわけで、そんな風に生きられること自体、それだけで素晴らしい。刹那的に生きられている人がどれだけいるだろう。私もくよくよ悩んでばかりでそんな風に生きられていない。
もちろんそこには本音と建前のようなものがあって、人それぞれに一定のラインが存在するだろうけど、それは相対的なものであって、比べるものでもない。
だから私は刹那的に生きていきたい。
昨日、Ultra Japan へ行ってきた。
コロナが流行してから中止されていたから、実に3年ぶりの開催だったとのことで、私にとっては初めてのUltra Japanだった。
DJがアヴィーチーを流してくれたとき、最初はとても感動したけれど、みんなとりあえずWake Me Up流しときゃ良いくらいな感じで流してるなぁと思った。4,5回聞いたよ。
まぁでも、おとんの死がきっかけで好きな音楽が変わった。そして、日本で最大のEDMのフェスへ行ってきた。
そんな話。