はるまきさんの記録

自死遺族として考えたことを記録します。

寄り添うこと。

私は父を亡くした自死遺族ですが、母は夫を亡くした自死遺族です。


2か月前、母から「精神的に境界線上にいる」と告白されました。親戚と一緒にお出かけをしてその帰り、カフェで一息ついている時でした。


母は正社員として働いているのですが、少しハンデがあって他の正社員の方がやっていることを会社から免除してもらっています。そのことで他の社員の方から陰口を言われることがあって、「前は受け流せたものを今は受け流すのが難しくなっている。」とのことでした。心の余裕がなくなってしまっているのです。


うんうん、と私は母の話を聞いて、仕事については辞めても良いだとか、元々会社とはそういう話で働いているんだから悪くないよとか、そんな話を私はしました。
でも私にとって、「精神的に境界線上にいる」というこの発言はとても衝撃的でした。私自身、父が死んでから初めて自分が壊れてしまうのではないかという程の感情を知ったので、母のその言葉は実感をもって私に迫ってくるものだったのです。


母のこの言葉を聞いて、私はなんとかして母に寄り添いたい、母を元気づけたいと思いました。けれど、寄り添うってなに? どうやったら元気づけられるんだろう?と、私にはどうしたら良いのか、よくわかりませんでした。
そんな私にできたことは、今までよりも多く実家に帰って母と一緒に過ごすことだけでした。月に1回帰省していたのを、週に1回帰るようにしました。


実家に帰って特別に何かをするわけではありませんでした。
お菓子を買って帰って、「このクッキー美味しいよ」と話したり、ドラマが好きな母に「今日は何のドラマがやるの?」と聞いて、一緒に見て、「このドラマ色んな人が出てるね」、「おもしろいね」と、ただ一緒に過ごしているだけなのです。


そんな日々を2か月続けて、なんとなく思ったことがあります。
それは、母を元気づけるために寄り添いたいと思って一緒に過ごしていたら、私自身がとても癒されていた、ということです。

 

父が自死をしてから私も不安定な部分があります。とても辛い日々がありました。おそらくは、いや、確実に母にも辛い日々があったのだと思います。

そんな二人が一緒に過ごす。ただ一緒にいるだけで、救われる。楽になる。これが家族なのか、寄り添うということなのか、それは今の私にはわかりません。

でも、大切な人と一緒に時間を共有すること、それはかけがえのない素晴らしいことであると思うのです。

父が自死をした日

 父が自死した日を記録します。父の遺体に再会するまでを書いていますので、読まれる際はご注意をください。
 
 父が自死をしたのは11月の末でした。場所は埠頭近くにある公園の公衆トイレ内で、死因はトイレの手すりにメジャーをひっかけて首を絞めたことでした。
 正確に父が自死をした日にちはわかりません。病院が発行した死体検案書には、「死亡したとき」は午前0時頃と書かれています。なので、その日を命日としているのですが、感覚的にその前日がその日だったのかもしれないなと、私は思っています。
 
 父が自死をしたであろうその日の夜、私は同期7,8人ほどでご飯を食べていました。同期の一人が育休をとるということで、送別会の意味を込めたものです。
 私はこの夜のことをよく思い出します。父が死と向き合っていたその時に、私は楽しくお酒を飲んでご飯を食べていました。父が自死に至るまでに、父の中でも様々なことがあったと思うので、この一時点を切り取っても意味がないとも思うのですが、父がまさに自死をしようとしている時、私は楽しく過ごしていたのです。その事実に虚しくなります。
 その中でも、なぜだか特に覚えていることがあります。12時少し前、食事会から帰宅した私はその日のお弁当箱を洗っていました。アルコールと食事会の高揚感、そしてその少し前に同僚の方(何度か登場するので、Aさんとします。)に振られた感傷から妙に浮ついた気分でお弁当箱を洗っていました。明日のお弁当を作るのは諦めた、なんて思いながら。
 私自身が洗い物をしているこの光景を、私は今でもよく思い出します。
 
 そしてその翌日。父は既に亡くなっていたであろうその日。
 私は朝から普通に仕事へ行きました。普通に午前中を終え、Aさんと昼ごはんを食べました。
 昼過ぎでした。1時30分の少し前。
 普段であれば、スマートフォンは机の中にしまっていて見ないことが多いのですが、その日はたまたまスマートフォンをちらっと見ました。すると、兄からラインが数件、ラインの通話、電話とたくさんの履歴が残っています。すぐにロッカーで兄に折り返すと、父が失踪したこと、すぐに実家に帰って欲しいことを伝えられました。
 すぐに帰ろうと思い、上司に伝えようとしても気が動転していました。「父が、父が、」としか私は言えなかったように思いますが、上司は「うん。わかった。行っておいで。」と言ってくれました。もう涙で目が滲んでいました。
 
 会社を飛び出して、一人暮らしをしているマンションへ原付を飛ばしました。道中、涙が滲んだ目で「お願いしますお願いします」と祈るような気持ちで走っていました。
 家に着いて次の電車の時間を調べると、少し時間があることがわかりました。我ながら不思議に思うのですが、妙に冷静なところもあって、私はこの時間に着替えをして電車に乗りました。
 マンションから実家までは、在来線を乗り継いで1時間半、兄は実家まで新幹線と在来線で3~4時間のところに住んでいます。
 電車に乗っている間、兄からのラインを読むと要点はこうでした。
 ・母から兄へ、父が昨日仕事へ行ったきり帰って来ないという連絡が今日の昼頃にあった。
 ・母はその連絡にうつ病が思ったよりも進行してしまった、と書いていた。
 ・母は昨夜から寝ずに待っていたが、居ても立ってもいられずに朝4時ごろ父の会社へ行った。そこに父はいなかった。
 ・母は父の会社の始業を待ち、会社の社長さんに話を聞いた。
 ・社長さんも父の所在がわからなかったが、警察へ届け出るように母へ勧めた。
 ・母はその足で警察署へ行方不明届を提出した。
 ・母へ警察から連絡があり、埠頭で父のスマートフォンGPS反応が出たことを伝えられ、大きなメジャーを持っていたかを聞かれた。
 ・警察が埠頭へ向かっている。
 ・状況がわかり次第、警察から連絡が来る。
 ・車で30分程の場所に住んでいる叔母(母の姉)が実家の母のもとへ向かっている。
 
 Aさんから急に帰ったけどどうしたの?と連絡が来ました。私が父が失踪したことを伝えると、Aさんは一緒に探すと言ってくれました。良くあることなのかと聞かれたので、こんなことは初めてだと伝え、警察がGPS反応を頼りに埠頭へ向かっていると伝えました。
 私が中学生の頃、父は精神的に少し不安定でした。それまでにも何度か転職をしていたのですが、その頃に転職した職場が合わなかったのだと思います。父はいつも不機嫌で、母に怒鳴ることもしばしばであったように思います。その職場を2,3年で辞めてからはそのようなこともなくなっていたため私も忘れてしまっていたのですが、父のうつが進行して失踪したと兄から連絡があった時、私にはそれが突拍子もないことのようには思えなくて、お願いだから生きていて欲しいと思う反面、あぁそうか、ひょっとするともうだめかもしれないな、という相反する考えが私の中にありました。
 
 実家近くの駅に着いた私は、タクシーへ飛び乗りました。駅からタクシーを使うなんて普段であればありえないことでしたが、一刻も早く家に帰る必要が私にはありました。
 家に着くと叔母の車があり、叔母が既に到着していることがわかりました。
 急いで居間に入っていくと、
「〇〇(私の名前)、お父さんだめだった、ごめんね」
と母が泣きながら、泣いているために不明瞭になった言葉を私に投げました。母は立膝をついて泣いていました。私はこの時の母の顔を、姿を一生忘れないのではないかと思います。瞼が赤くなり、顔をくしゃくしゃにして泣いていました。
 すぐに私の目にも涙が溢れ、嗚咽が漏れました。泣きながら、私は私自身がこんな風に泣いていることに驚きました。普段からどこか冷めている自分を感じていたので、私は私の中にこんな感情があるとは思わなかったのです。私は声をあげて泣いていました。
 
 話を聞くと、私が到着するほんの数分前に警察から連絡があり、父の自死を告げられ、警察署まで遺体を引き取りに来て欲しいと言われたとのことでした。
 すぐに警察署へ行くことになり、途中にある駅で兄を拾いました。私はAさんに父が首を吊って自殺をしたと伝えました。
 警察署へ到着すると、刑事課?に通されたように記憶しています。母と兄、私の3人で警察官から父について話を聞かれました。警察官の話によると、場所が公園の公衆トイレであったために他殺の可能性も捨て切れず、調査に時間がかかり、連絡が遅れてしまったとのことでした。ただ、父が自死に使用したメジャーが父の持ち物であったことなどから、自死であると判断されたようでした。
 その後は、ここ最近の父の様子について話を聞かれました。母が話をしました。
 うつ病あるいは認知症が進行していて、病院に行こうとしていた矢先のことであったこと。
 父が管理していた通帳や印鑑の場所、通帳の暗証番号まで最近になって伝えられていたこと。
 父の仕事に区切りがつくところまで頑張ろうと話をしたこと。その区切りは5日後でした。
 年末には会社を辞めようと話をしていたこと。
 話を聞いていた警察官は言葉を選びながら話をしているようでした。私は警察官の方を少し気の毒に思いました。
 
 取り調べが終わった後、父の遺体がある場所へ私たちは案内されました。警察署の地下に駐車場があり、その一角が部屋になっていて、そこに父がいるとのことでした。暗い駐車場とは対照的に、その部屋は外からとても明るく見えたことをよく覚えています。
 部屋に入ると、し尿の臭いがしました。 
 その部屋は8畳くらいの大きさで、日常的に私たちのような人たちが案内される部屋と思われ、必要最小限の備品が置かれているような、そんな部屋でした。
 その部屋の中央で、父は白い布を体全体にかけられ、ストレッチャーの上で寝ていました。警察官の方が見られますか?というようなことを聞かれ、私たちがうなずくと、白い布がめくられました。
 寝ていたのはやっぱり父でした。首を絞めた際にあごが外れてしまったのか、下あごを前方に大きく突き出していて、舌べらも同じように突き出していました。舌べらにはぼつぼつとしたものがたくさんありました。
 私はこの時の自分がどんなことを考えたのかよく思い出せません。あえて言うならば、悲しみの向こう側、諦めみたいな気持ちであったように思います。
 父の首に目をやると、紫色の2,3センチの筋がありました。その筋は首に食い込んでいて、痛そうでした。母が、ここを絞めたんだね、と言ったような気がします。父はメジャーで首を絞めました。首を絞めると言うけれど、その筋は私が思ったよりも頭の方にあって、思ったより上なんだなと私は思いました。
 父の額はすべすべとしていてひんやりと冷たかったです。
 
 なぜ私はこの文章を書いてブログに載せているのでしょうか。
 それは全て、全て私自身のためであると思います。